『三国志 巻三』の内容に関する誤りについて
またしてもやってしまいました。
しかも今回これに気付いたのは次巻作業(年表整理)中という駄目加減です。
またしても深くお詫びします。
具体的には、
・都鄙の悼歌 五節
書き手はなんとなく「まあ鄄城でいいか☆」という程度で執筆しておりました。
なにもよくない。
正史三国志の記述を整理すると、
魏書武帝紀
「曹操は定陶を攻撃したが、陥落しないうちに呂布が援軍に来たのでこれを破った。さらに曹操は鉅野を落とし、援軍の呂布を退けた。呂布はまた陳宮とともに東緡から来て攻撃を仕掛けた。曹操は小勢だったものの、伏兵を用いて大いに破った。(中略)呂布は東の劉備のもとへ逃走した」
魏書呂布伝
「曹操は鉅野にて呂布を撃破した。呂布は東の劉備のもとへ走った」
書き手はこの後者をすっかり忘れていたようで。
つまり呂布と陳宮は奪われた鉅野を奪還するために、東緡から再び鉅野を攻めたということ。
鄄城ではない。
本当に、本当に申し訳ございませんでした。