呂布はそこまでアホなのか
なんの脈絡もなくこんな記事を上げて申し訳ございません。
他に三国志全般で話すべきことがきっとあるのですが、呂布という個人に絞り、楪らくの所感を述べさせていただきます。
三国志最強の武将として評されることの多い呂布。
その武力と引き換えに、知力はあんまりない……ほとんどない……壊滅的にない、と、脳筋に描かれがちでもあります。蒼天航路はそのレベルも超えていたが
正史から読み解く呂布の知力はいかほどなのか。
先に結論を申し上げれば、「アホじゃないけど価値観がぶっ飛んでいるので中原の人間と意思疎通できない」と私は考えております。
これについて、いくつかエピソードを拾って説明いたします。
裏切りのプロフェッショナルとしても知られる呂布の最初の主君は丁原。
并州刺史だった丁原にその武芸を買われて登用され、後に丁原が洛陽に出仕すると、呂布は主簿(会計係)になります。
これは馬鹿にできません。少なくとも読み書きができなければ務まらない仕事です。
……なぜわざわざこのように取り上げるかと言うと、丁原が読み書きのできない人物だったからです(同上注引く『英雄記』より)。
呂布を馬鹿にする人々にはこう告げたい。少なくとも主君よりは賢かったんだぞ、と。
いやまあ王平のような例もありますし、読み書きできないから馬鹿というのも偏見あるけど
董卓にもその武力を買われた呂布は、丁原を殺害して董卓へ鞍替えします。董卓とは父子の契りを交わし、身辺警護も任されるという重用っぷり。
ところがその董卓も裏切ります。理由は「董卓から手戟を投げつけられたから」および「董卓の侍女と密通していたから」。要は個人的感情によるものですね。
同郷出身の司徒・王允は、これを察したのか、呂布に董卓暗殺を持ち掛けました。これに対して呂布の返答は、
「父子なのに殺せるか」でした。
それ以前の丁原の件はどうなったのでしょう。主君を斬るというのは、父親殺しにも等しい大罪なのでは……?
呂布の意図は分かりませんが、逆に言えば、これ以外に殺さない理由はなかったのかもしれません。結局は王允の要請を呑んで董卓を殺害してしまうのでした。
時は飛んで、長安を追い出された呂布は、まず荊州の袁術を頼ります。「袁術のために董卓を殺した自分は厚遇されるはず」と考えたようです。申し訳ないのですが、これは陳寿による本文の記述です。ちょっと私も意味わからない。
ともかく呂布はその袁術に嫌われ、その後に冀州の袁紹を頼りました。
当時の袁紹は盗賊徒党の黒山衆と争っており、呂布はその加勢をして、黒山衆頭目の張燕を破りました。
以下余談。
ここでも『後漢書』呂布伝に意味の分からない記述があります。張燕の軍勢は兵が一万以上、騎馬が数千。呂布は数十騎で日に3、4回の突撃をして十数日後、これに勝利してしまいます。キルレシオなんぼだ?
次からは『英雄記』の記述。呂布は朝廷から任命された官吏でない袁紹らを馬鹿にしていたそうです。
袁紹も先の活躍に脅威を感じていたため、そして呂布の態度が気に食わなかったため、「洛陽に帰りたい」と言い出した呂布の願いを承諾したふりをして、刺客を送り込みました。
出立の見送りという体を装っていたそうです。
その程度では死なないのが呂布です。しかし武力行使ではなく知恵で生き延びます。
三十人の兵がやってきたところ、呂布は彼らを幕の外に待たせておき、人に楽器をひたすら演奏させ、やがて兵が寝入ったところでこっそり脱出しました。
刺客は夜中に起き、慌てて呂布のベッドを皆で突き刺し、暗殺完遂と勘違い。明くる日に呂布が逃げ出したと知った袁紹は追っ手をかけますが、呂布にまともに当たりたい者はなく、呂布を取り逃がしてしまいました。
おそらく刺客を返り討ちにしては、逃げるための時間が稼げなかったでしょう。いや正直わからないのですが。
陳宮の名誉のため断言を避けますが、呂布を迎え入れて曹操を裏切った挙句に負けてしまった陳宮は、呂布が徐州を奪った後、即刻呂布までも裏切って郝萌に反乱を起こさせた、可能性があります。
郝萌は夜中に呂布の居城まで攻めかかるのですが、門の突破に手間取っている間に、呂布は厠の屋根をつたって脱出。
高順の陣営の門を勢いでブチ破ってそこに逃げ込み、助かりました。
そこで高順は尋ねます。
「なにか不審な点はありませんでしたか?」
「河内の訛りがあった」
河内とは、後漢の首都である洛陽のすぐ北。
言わば「東京弁があった」とでもたとえればいいのでしょうか。
当時の中華は交通も不便、地域によりまったく言語が違ったそうです。
しかも呂布の出身は并州五原郡という果ても果て。丁原に付いて上洛した際、こいつら訛りがある…! と方言全開でビビっていたらかわいいです。
ちなみにですが、とっ捕まった郝萌が「陳宮も共謀者です」と供述した際、居合わせた陳宮が顔を赤らめたため、皆はいろいろと察したそうです。
ただ、呂布は陳宮の権限が大きかったので、それ以上は追求しませんでした。だから陳宮主導の反乱だったかは不明です。陳宮の名誉のために。
呂布に徐州を奪われた劉備は小沛に移動。踏んだり蹴ったりなことに、袁術配下の紀霊が攻め込んできます。
呂布から気に入られていると自覚があったのでしょうか、劉備は呂布に救援要請を出しました。
颯爽と駆けつけた呂布は、紀霊と劉備の仲裁を敢行。
曰く「玄徳は俺の弟だ。弟がてめぇらのせいで困ってるじゃないか。だいたい俺は争いが嫌いなんだ、仲裁するのが好きなんだ」
そして戟に矢が当たったら軍を返せと紀霊に要求、見事に矢を命中させるのは知っての通り。
どこまで本気なのか不明ながら、呂布はこれ以前に配下諸将にこのようにも語っています。
「もし袁術が劉備を破れば、北の諸将と連合する。俺たちはそれに包囲されてしまう」
つまり劉備を袁術&諸侯への盾として利用することをしっかり考えていたのでした。
なお、上記の発言に立ち返って申し訳ありませんが、字で呼ぶのは親しい関係に限られる、とは別の記事で説明した通り。
劉備を字で呼び捨てたのも大概ですが、それ以上に弟という扱いが素晴らしいです。
呂布ははじめ徐州牧だった劉備を頼った際にも弟呼ばわりをし、劉備を不快にさせています(『三国志』魏書呂布伝注引く『英雄記』より)。
呂布に悪意はなかったのかもしれません。ですが弟は駄目です。あんた徐州奪っただろうが。
徐州強奪以前、呂布は曹操と熾烈な争いを繰り広げました。
その後、袁術と同盟することを警戒した曹操は、呂布の動きを抑えるために左将軍へ任命します。呂布はこれを受けて、娘を袁術の元へ送るのを取りやめました。
この時、曹操が平東将軍の印綬に添えて送った手紙に曰く、
「国家には良質な金がないので、私の財産から金を探して印を作りました。国家には紫の綬がないので、私の帯から綬を取って私の真心にいたします。どうかお使いください」
めちゃくちゃ下手です。しかし曹操は呂布に領土を奪われかけたトラウマがありますし、この程度のおだてで懐柔できるなら安いものでしょう。
さてこの印綬というもの、官位を示す大切なものです。伝国の玉璽が皇帝の証であるように、です。
そのパーツは判子である「印」と腰から下げるための「綬」に分かれます。この綬は格によって色が指定されています。太守クラスで青。紫はその上の三公クラスです。さすが曹操、懐柔が派手だ
呂布は曹操の文面を真に受けて「俺のために綬がなくなったんじゃ大変だ!」とでも気を遣ったのでしょうか。乱世の微笑ましい一場面です。
いかがでしょうか。
私自身、これを書きながら「呂布がアホでないことの証明になっているのか……?」と疑いましたが、まあ彼の価値観のぶっ飛びっぷりが伝わるのでもいいです。
また、引用文献『英雄記』祭りになってしまいました。
この文献、同時代の人間が書いたものなので信憑性はそこそこながら、多々「面白い」記述があります。ここでの面白いとは過度の脚色を疑うという意味。
真面目に史実考証をするならば排除すべきかもしれません。そのあたりは是非正史から感じ取っていただきたいです。